冬型の気圧配置が優勢で高い山は荒れた天気の模様。
こんな日は里山歩きに打ってつけの日だ。
そこで今まで未登の信達平野東部の低山3山を巡ってきた。
【 1/31 代皇山(227m)、徳ヶ森(294m)、古城山(225m) 福島・阿武隈山地 】
●代皇山(醍醐山、台子山):醍醐山登山口~代皇山(往復)
●徳ヶ森:見城坂工業団地~南登山口~徳ヶ森(往復)
●古城山(茶臼山):茶臼山公園駐車場~第4広場4~古城山~懸田御前観音堂~茶臼山公園駐車場
今回ご一緒するのはmaronnさん、ebiyanさん、マスさんの3名。
待ち合わせた場所でハッチバックに荷物を積んでいたら、ザックの背負い紐がハッチバックドアに挟まってしまい、その後押せども引けども、ドアロックの開け閉めを繰り返してもハッチバックドアが開かなくなってしまった。
スマホでロックの解除方法をいろいろ検索し試してみたが、自力で復旧させることは難しいと判断。
内張りを外して引っかかっている部分を取り除かないと直らないみたいだ。
結局、この日の夕方ディーラーに行って直してもらったが、30分もかかったのに無料だったのは有難かった。スズキ車を乗り続ける方が多い理由がこんなサービスの良さなんだと改めて理解できた。
東北道は風が強く、前夜に降った雪が融雪剤を散布していても一部融け残っていた。
菅生PA北側の下り線で1台、国見IC北側の上り線で1台単独のスリップ事故を起こしている乗用車があった。帰り道でも一般道でスリップして田んぼに落ちている軽自動車があったので、車の運転はそれを見て慎重になった。
この日、本当は赤坂の里森林公園から取り付く大館山にも登る予定だった。
森林公園の駐車場まで行ってみると、未だ前夜降った雪が枝や笹の葉から落ちておらず、一部藪漕ぎ区間がある大館山は諦めざるを得なかった。
最初に登る代皇山は霊山神社に行く県道45号の南側に位置する小山だ。
その県道から見た代皇山。折からの強風で雪煙が舞っている。
こんな日は里山歩きに打ってつけの日だ。
そこで今まで未登の信達平野東部の低山3山を巡ってきた。
【 1/31 代皇山(227m)、徳ヶ森(294m)、古城山(225m) 福島・阿武隈山地 】
●代皇山(醍醐山、台子山):醍醐山登山口~代皇山(往復)
●徳ヶ森:見城坂工業団地~南登山口~徳ヶ森(往復)
●古城山(茶臼山):茶臼山公園駐車場~第4広場4~古城山~懸田御前観音堂~茶臼山公園駐車場
今回ご一緒するのはmaronnさん、ebiyanさん、マスさんの3名。
待ち合わせた場所でハッチバックに荷物を積んでいたら、ザックの背負い紐がハッチバックドアに挟まってしまい、その後押せども引けども、ドアロックの開け閉めを繰り返してもハッチバックドアが開かなくなってしまった。
スマホでロックの解除方法をいろいろ検索し試してみたが、自力で復旧させることは難しいと判断。
内張りを外して引っかかっている部分を取り除かないと直らないみたいだ。
結局、この日の夕方ディーラーに行って直してもらったが、30分もかかったのに無料だったのは有難かった。スズキ車を乗り続ける方が多い理由がこんなサービスの良さなんだと改めて理解できた。
東北道は風が強く、前夜に降った雪が融雪剤を散布していても一部融け残っていた。
菅生PA北側の下り線で1台、国見IC北側の上り線で1台単独のスリップ事故を起こしている乗用車があった。帰り道でも一般道でスリップして田んぼに落ちている軽自動車があったので、車の運転はそれを見て慎重になった。
この日、本当は赤坂の里森林公園から取り付く大館山にも登る予定だった。
森林公園の駐車場まで行ってみると、未だ前夜降った雪が枝や笹の葉から落ちておらず、一部藪漕ぎ区間がある大館山は諦めざるを得なかった。
最初に登る代皇山は霊山神社に行く県道45号の南側に位置する小山だ。
その県道から見た代皇山。折からの強風で雪煙が舞っている。
駐車場所があるか心配したが、一台分駐車可能な使われていない山道の入口に車を停めることができた。
登山口には「醍醐山(代皇山)登山口」と記載された大きな看板が立っている。
右手が木幡メリヤスの工場、左手が東邦建設。その間に伸びる道に入る。
この山には「醍醐山、代皇山、台子山」と山名が3つもある。
元々の山名の由来は,多賀城国司の臣下であった藤原真吉備がこの地に養蚕を伝え、その子とともに悪津湖を干拓して田畑を広げたようで、その功績を讃えて亡くなった親子の霊を森山(今の台子山)山頂に祀り大湖山と称したとか。現在、地元では台子山と呼ばれているようだが、地形図に採用されている代皇山は南北朝時代に後醍醐天皇の命を受け、義良親王(後の後村上天皇)が北畠顕家と共に霊山城に在城したことからついた山名と言う説がある。また醍醐山は山頂に建つ観音堂の本尊の醍醐山千手観音菩薩に由来している。
ミズバショウやマタタビと書かれた看板を左右に見ながら一本道を登って行くと、雪で倒れた木々が行く手を遮っていた。写真は帰路に撮ったものだが、四つん這いにならないと通過できない。
南側の尾根に乗り上げる。
そこから道は北へ向きを変える。
空堀や土塁跡があり、この山は南北朝時代の霊山城の出城のひとつであったことが分かる。
切通しになった岩場の上部に手引の観音が祀られている。
右に回り込んで急坂を少し登ると観音堂が建つ山頂に着いた。
観音堂には千手観音菩薩、大日如来、古峰明神が祀られている。
山頂西側の見晴らしの岩場には高祖大師碑と雷神様が祀られている。
岩場の下には子持ち石観音が安置されているようだが、近づいてみても何処に観音様があるか分からなかった。
見晴らしの岩の上は自然の展望台で、登れなかった大館山が梢越しに見えている。
西側には広瀬川を挟んで徳ヶ森が対峙する。
南西には御幸山を中心に女神山(左奥)と天井山(右奥)が見えていた。
山頂の東端に移ると、霊山の紫明峰が至近距離で望める。
登山口南側に駐車した愛車の姿も見えた。
そして山頂広場を取り囲むように西国三十三観音が安置されている。
これは江戸時代中期の作とされ、村人達により寄進されたものらしい。
山頂から往路を返す。
小粒でも見どころがとても多い山だった。
代皇山のGPSログ。
次の山、徳ヶ森は足繁く阿武隈山地に通っていた時期、県道月館霊山線を走行する時に何時も見えていて気になっていた山で、登ってみたいと思いながらかも中々その機会がなかった。
この山は民有地らしく、地元のボランティアの方が山の整備を行っていると聞く。
登山口へのアプローチは見城坂工業団地を目指す。
積雪で駐車場まで乗り入れ出来ないようなので、工業団地東側の空き地に車を停めて歩きだした。
駐車場手前に建つ看板。
看板を見ると内堀や外堀、土塁跡、狼煙台跡などの表記が見られ、この山もかつて山城であったことが分かる。
山裾はフラワーロードの名前通り桜の苗木が植樹されていて、10年以上経てば桜の名所になりそうだ。
その一角に早くも開花している紅梅を見つけた。

安全地蔵尊が安置された所が南登山口。
そこは見晴らし台になっていて、パイプを使った山を同定できる仕掛けが置かれていた。
三角形の山容をした御幸山の手前に、この後に登る古城山(茶臼山)が見えている。
南登山口から山頂まではほぼ直線的な急登になる。
しかしフラワーロードの整備状態から一変して、登山口から先の道は悪路だった。
何でもこの山一帯は2016年3月30日に大規模は山火事に見舞われ、それと相まってイノシシの掘り起こし被害により、登山道の階段がほとんど消滅してしまったらしい。
おまけに雪でぬかるんだ泥が非常に滑り、設置したトラロープはボロボロで、一部寸断している。
さらに道脇には棘のあるモミジイチゴが繁茂していて枝を掴んで登ることもままならない。
滑りやすい道は登りでも足場を探すのに苦労した。
まあ帰りは西登山口へ周回するのだから、滑るこの道は下らなくて良いと思いながら登って行く。
たどり着いた山頂広場はセイタカアワダチソウや笹が繁茂している。
それでも霊山は良く見える。
旧霊山町掛田地区の背後に以前登った雨乞山が見えている。
伊達市保原町の高子方面。
標高179mの羽山を中心に高子二十境の長閑な遊歩道が整備されていて、以前歩いた記憶が蘇る。
奥羽山脈の山々は雪雲で全然見えない。
さて、山頂から西側の東屋方面へ行き、そこから西登山口へ向かおうと思ったら・・・道が無い!
モミジイチゴの棘薮が繁茂してゆく手を遮り、先に進むのは絶対に無理。
仕方なく転ばないように慎重に往路を戻った。
トラロープは固くけば立っていて皮膚に刺さるので、手袋なしに素手で握りしめるのは厳禁だ。
下山後、百枚田跡を見学する。
今はミズバショウが咲き、夏はホタルが舞う場所らしい。
徳ヶ森のGPS軌跡。
雑然とした印象が残った徳ヶ森を後に、この日ラストの山である古城山(茶臼山)に向かう。
茶臼山公園の大きな駐車場から歩きだすと、すぐに公園入口がある。
入口には茶臼山公園の概念図があり、それを見て第4広場から山頂の本丸跡に登り、懸田御前観音堂を周回するコースを選ぶ。
古城山(茶臼山)に関する事は登山コース以外まったく予習をしないで登ったため、帰宅後にいろいろ調べてみた。すると当時この地を支配していた伊達氏第14代伊達稙宗と息子の第15代伊達晴宗の間で、天文11年(1542年)から17年(1548年)の7年間に渡り、南奥羽の諸大名や家臣を巻き込む大きな内乱を起こしていた事が分かった。(ちなみに伊達政宗は第17代伊達氏当主)
この古城山(茶臼山)にかつてあった懸田城は『伊達氏天文の乱』の下で何度も戦いが繰り広げられた場所だったのである。
話の発端は伊達稙宗(たねむね)が息子の時宗丸を越後の上杉家へ養子に出そうとした事に始まる。一部の臣下が時宗丸に付き従って上杉家へ行ってしまうと、伊達家が無力化するのを恐れた息子の伊達晴宗が養子縁組に反対し、それを契機に親子の対立が激化して稙宗は桑折西山城に幽閉されてしまう。稙宗の家臣が幽閉された稙宗を救出し、懸田城に逃げ込んだ。
懸田城主の懸田俊宗は伊達稙宗の娘を妻に迎えていて、稙宗から見れば娘婿に当たる人物だった。
懸田俊宗は稙宗側の重臣として乱に参戦し奮闘した。乱が始まった当初は懸田城に稙宗の本陣が置かれていたという。
戦いは当初、稙宗有利で進んだが、天文16年(1547年)に会津の葦名氏が晴宗側に離反する事で戦況は一気に晴宗有利に傾いた。そして天文17年(1548年)に室町幕府第13代将軍・足利義輝から和睦の命令が出され、稙宗は隠居して晴宗に家督を譲ることとなり、乱はここに集結した。その後、晴宗は米沢城に本拠地を移し、桑折西山城は廃城となる。
しかし乱の敗者だった稙宗側の懸田俊宗は懸田城の破却と所領の没収の処置に不満を抱き、最後まで抵抗をつづけた。だが家臣の寝返りが相次ぎ、懸田俊宗は懸田城から月館・川俣方面へ落ちのびるが、最後は一族一人残らず処刑され、懸田氏は滅亡することになった。
登山道は急な西斜面を斜登高するように続いている。
途中、旧霊山町掛田の市街地が一望できる場所があった。
この町は道がクランク形に直角に曲がるところが多く、城下町の雰囲気をよく残している。
晴れているので、朝方に積もっていた雪はかなり融けている。
第4広場は曲輪で、懸田城は小郭が階段状に張り出す梯郭式の縄張りを持つ山城と言われている。
梯郭式とは聞きなれない言葉だが、本丸を険しい地形に面した場所に作り、その2~3方向を二の丸が取り囲み、さらに外側の2~3方向に三の丸を有する構造の城とか。
曲輪で防御できない方向は一般的に絶壁や川などの険しい地形を有している。実際に山頂の本丸にて観察すると、北側が凄い急角度で落ち込んでいて、西側には小国川が流れ、天然の要害の地と感じた。
第4広場から一直線の急坂となる。

南斜面に出ると風が遮られ、温かい陽だまりハイクといった雰囲気になる。
この山は展望が開ける場所が極端に少ない。
第1広場方面から登ってきた分岐付近は南側の展望が開け、御幸山が間近に望めた。
二の丸を過ぎてひと登りで山頂の本丸跡に着く。
この山は桜の名所として知られ、4月下旬には多くの花見客が訪れるらしい。
山頂の一角に城主宮が建っている。
懸田城主:懸田俊宗と懸田御前、その御子の梅松の三名を祀っているとか。
トイレの裏側から木々の隙間に徳ヶ森が見えていた。
山頂から東側へ一段下ったところに金華山神社が建っている。
正式な神社名は古城山金華山神社。地形図の古城山はこの神社名から来ているのだろう。
下山は山の南側をトラバースする道に入る。
途中、郷土の歌人・佐藤嘲花の歌碑が立っているが達筆過ぎて何が書かれているのか読めなかった。
その先に最近建て替えられた懸田御前観音堂が建っている。
この観音堂にも悲しい伝説が残っている。
懸田俊宗の妻は懸田御前と呼ばれ、奥州随一の類まれな美人だった。
俊宗は戦いに敗れ、懸田城は破却されて俊宗と息子の義宗は処刑されたが、伊達稙宗の娘である懸田御前は命を取られることはなかった。元は俊宗の臣下であり、晴宗側に寝返った中島伊勢義康は懸田城落城の時に、予てから横恋慕していた懸田御前をものにしようと言い寄った。
しかし御前は頑固に誘いを断り、それに激怒した中島は御前の息子の梅松丸を切り殺してしまう。その後、御前が中島を呪い殺す祈祷を行っているという噂を聞いた中島は、御前を生きながらにして深い沼に沈めて殺した。これ以降、金山城主(現・宮城県丸森町)となった中島家の子孫にも男子が生まれることは無く、それは御前の呪いによると言われている。(注:この話は諸説ある模様)
観音堂から駐車場まで一気に下り、この日の登山は3山で止めにした。
帰宅後の懸田城跡の事を調べてみて、その工程を振り返ってみると、より山行の味わいが増した。
古城山(茶臼山)のGPS軌跡。
下山後、お腹が空いたので近くの道の駅りょうぜんへ立ち寄る。
前回11月30日に立ち寄った時は伊達鶏の釜飯を食べたので、今回は伊達鶏カレーきしめんを注文(700円)。温和な中にも鶏出汁がほんのり利いて美味しい一品だった。
3月までにまたこの界隈の低山歩きをする予定だ。
福島県は南北朝時代の出城が各地に点在していて、歴史を感じさせる山歩きができてとても楽しい。
登山口には「醍醐山(代皇山)登山口」と記載された大きな看板が立っている。
右手が木幡メリヤスの工場、左手が東邦建設。その間に伸びる道に入る。
この山には「醍醐山、代皇山、台子山」と山名が3つもある。
元々の山名の由来は,多賀城国司の臣下であった藤原真吉備がこの地に養蚕を伝え、その子とともに悪津湖を干拓して田畑を広げたようで、その功績を讃えて亡くなった親子の霊を森山(今の台子山)山頂に祀り大湖山と称したとか。現在、地元では台子山と呼ばれているようだが、地形図に採用されている代皇山は南北朝時代に後醍醐天皇の命を受け、義良親王(後の後村上天皇)が北畠顕家と共に霊山城に在城したことからついた山名と言う説がある。また醍醐山は山頂に建つ観音堂の本尊の醍醐山千手観音菩薩に由来している。
ミズバショウやマタタビと書かれた看板を左右に見ながら一本道を登って行くと、雪で倒れた木々が行く手を遮っていた。写真は帰路に撮ったものだが、四つん這いにならないと通過できない。
南側の尾根に乗り上げる。
そこから道は北へ向きを変える。
空堀や土塁跡があり、この山は南北朝時代の霊山城の出城のひとつであったことが分かる。
切通しになった岩場の上部に手引の観音が祀られている。
右に回り込んで急坂を少し登ると観音堂が建つ山頂に着いた。
観音堂には千手観音菩薩、大日如来、古峰明神が祀られている。
山頂西側の見晴らしの岩場には高祖大師碑と雷神様が祀られている。
岩場の下には子持ち石観音が安置されているようだが、近づいてみても何処に観音様があるか分からなかった。
見晴らしの岩の上は自然の展望台で、登れなかった大館山が梢越しに見えている。
西側には広瀬川を挟んで徳ヶ森が対峙する。
南西には御幸山を中心に女神山(左奥)と天井山(右奥)が見えていた。
山頂の東端に移ると、霊山の紫明峰が至近距離で望める。
登山口南側に駐車した愛車の姿も見えた。
そして山頂広場を取り囲むように西国三十三観音が安置されている。
これは江戸時代中期の作とされ、村人達により寄進されたものらしい。
山頂から往路を返す。
小粒でも見どころがとても多い山だった。
代皇山のGPSログ。
次の山、徳ヶ森は足繁く阿武隈山地に通っていた時期、県道月館霊山線を走行する時に何時も見えていて気になっていた山で、登ってみたいと思いながらかも中々その機会がなかった。
この山は民有地らしく、地元のボランティアの方が山の整備を行っていると聞く。
登山口へのアプローチは見城坂工業団地を目指す。
積雪で駐車場まで乗り入れ出来ないようなので、工業団地東側の空き地に車を停めて歩きだした。
駐車場手前に建つ看板。
看板を見ると内堀や外堀、土塁跡、狼煙台跡などの表記が見られ、この山もかつて山城であったことが分かる。
山裾はフラワーロードの名前通り桜の苗木が植樹されていて、10年以上経てば桜の名所になりそうだ。
その一角に早くも開花している紅梅を見つけた。

安全地蔵尊が安置された所が南登山口。
そこは見晴らし台になっていて、パイプを使った山を同定できる仕掛けが置かれていた。
三角形の山容をした御幸山の手前に、この後に登る古城山(茶臼山)が見えている。
南登山口から山頂まではほぼ直線的な急登になる。
しかしフラワーロードの整備状態から一変して、登山口から先の道は悪路だった。
何でもこの山一帯は2016年3月30日に大規模は山火事に見舞われ、それと相まってイノシシの掘り起こし被害により、登山道の階段がほとんど消滅してしまったらしい。
おまけに雪でぬかるんだ泥が非常に滑り、設置したトラロープはボロボロで、一部寸断している。
さらに道脇には棘のあるモミジイチゴが繁茂していて枝を掴んで登ることもままならない。
滑りやすい道は登りでも足場を探すのに苦労した。
まあ帰りは西登山口へ周回するのだから、滑るこの道は下らなくて良いと思いながら登って行く。
たどり着いた山頂広場はセイタカアワダチソウや笹が繁茂している。
それでも霊山は良く見える。
旧霊山町掛田地区の背後に以前登った雨乞山が見えている。
伊達市保原町の高子方面。
標高179mの羽山を中心に高子二十境の長閑な遊歩道が整備されていて、以前歩いた記憶が蘇る。
奥羽山脈の山々は雪雲で全然見えない。
さて、山頂から西側の東屋方面へ行き、そこから西登山口へ向かおうと思ったら・・・道が無い!
モミジイチゴの棘薮が繁茂してゆく手を遮り、先に進むのは絶対に無理。
仕方なく転ばないように慎重に往路を戻った。
トラロープは固くけば立っていて皮膚に刺さるので、手袋なしに素手で握りしめるのは厳禁だ。
下山後、百枚田跡を見学する。
今はミズバショウが咲き、夏はホタルが舞う場所らしい。
徳ヶ森のGPS軌跡。
雑然とした印象が残った徳ヶ森を後に、この日ラストの山である古城山(茶臼山)に向かう。
茶臼山公園の大きな駐車場から歩きだすと、すぐに公園入口がある。
入口には茶臼山公園の概念図があり、それを見て第4広場から山頂の本丸跡に登り、懸田御前観音堂を周回するコースを選ぶ。
古城山(茶臼山)に関する事は登山コース以外まったく予習をしないで登ったため、帰宅後にいろいろ調べてみた。すると当時この地を支配していた伊達氏第14代伊達稙宗と息子の第15代伊達晴宗の間で、天文11年(1542年)から17年(1548年)の7年間に渡り、南奥羽の諸大名や家臣を巻き込む大きな内乱を起こしていた事が分かった。(ちなみに伊達政宗は第17代伊達氏当主)
この古城山(茶臼山)にかつてあった懸田城は『伊達氏天文の乱』の下で何度も戦いが繰り広げられた場所だったのである。
話の発端は伊達稙宗(たねむね)が息子の時宗丸を越後の上杉家へ養子に出そうとした事に始まる。一部の臣下が時宗丸に付き従って上杉家へ行ってしまうと、伊達家が無力化するのを恐れた息子の伊達晴宗が養子縁組に反対し、それを契機に親子の対立が激化して稙宗は桑折西山城に幽閉されてしまう。稙宗の家臣が幽閉された稙宗を救出し、懸田城に逃げ込んだ。
懸田城主の懸田俊宗は伊達稙宗の娘を妻に迎えていて、稙宗から見れば娘婿に当たる人物だった。
懸田俊宗は稙宗側の重臣として乱に参戦し奮闘した。乱が始まった当初は懸田城に稙宗の本陣が置かれていたという。
戦いは当初、稙宗有利で進んだが、天文16年(1547年)に会津の葦名氏が晴宗側に離反する事で戦況は一気に晴宗有利に傾いた。そして天文17年(1548年)に室町幕府第13代将軍・足利義輝から和睦の命令が出され、稙宗は隠居して晴宗に家督を譲ることとなり、乱はここに集結した。その後、晴宗は米沢城に本拠地を移し、桑折西山城は廃城となる。
しかし乱の敗者だった稙宗側の懸田俊宗は懸田城の破却と所領の没収の処置に不満を抱き、最後まで抵抗をつづけた。だが家臣の寝返りが相次ぎ、懸田俊宗は懸田城から月館・川俣方面へ落ちのびるが、最後は一族一人残らず処刑され、懸田氏は滅亡することになった。
登山道は急な西斜面を斜登高するように続いている。
途中、旧霊山町掛田の市街地が一望できる場所があった。
この町は道がクランク形に直角に曲がるところが多く、城下町の雰囲気をよく残している。
晴れているので、朝方に積もっていた雪はかなり融けている。
第4広場は曲輪で、懸田城は小郭が階段状に張り出す梯郭式の縄張りを持つ山城と言われている。
梯郭式とは聞きなれない言葉だが、本丸を険しい地形に面した場所に作り、その2~3方向を二の丸が取り囲み、さらに外側の2~3方向に三の丸を有する構造の城とか。
曲輪で防御できない方向は一般的に絶壁や川などの険しい地形を有している。実際に山頂の本丸にて観察すると、北側が凄い急角度で落ち込んでいて、西側には小国川が流れ、天然の要害の地と感じた。
第4広場から一直線の急坂となる。

南斜面に出ると風が遮られ、温かい陽だまりハイクといった雰囲気になる。
この山は展望が開ける場所が極端に少ない。
第1広場方面から登ってきた分岐付近は南側の展望が開け、御幸山が間近に望めた。
二の丸を過ぎてひと登りで山頂の本丸跡に着く。
この山は桜の名所として知られ、4月下旬には多くの花見客が訪れるらしい。
山頂の一角に城主宮が建っている。
懸田城主:懸田俊宗と懸田御前、その御子の梅松の三名を祀っているとか。
トイレの裏側から木々の隙間に徳ヶ森が見えていた。
山頂から東側へ一段下ったところに金華山神社が建っている。
正式な神社名は古城山金華山神社。地形図の古城山はこの神社名から来ているのだろう。
下山は山の南側をトラバースする道に入る。
途中、郷土の歌人・佐藤嘲花の歌碑が立っているが達筆過ぎて何が書かれているのか読めなかった。
その先に最近建て替えられた懸田御前観音堂が建っている。
この観音堂にも悲しい伝説が残っている。
懸田俊宗の妻は懸田御前と呼ばれ、奥州随一の類まれな美人だった。
俊宗は戦いに敗れ、懸田城は破却されて俊宗と息子の義宗は処刑されたが、伊達稙宗の娘である懸田御前は命を取られることはなかった。元は俊宗の臣下であり、晴宗側に寝返った中島伊勢義康は懸田城落城の時に、予てから横恋慕していた懸田御前をものにしようと言い寄った。
しかし御前は頑固に誘いを断り、それに激怒した中島は御前の息子の梅松丸を切り殺してしまう。その後、御前が中島を呪い殺す祈祷を行っているという噂を聞いた中島は、御前を生きながらにして深い沼に沈めて殺した。これ以降、金山城主(現・宮城県丸森町)となった中島家の子孫にも男子が生まれることは無く、それは御前の呪いによると言われている。(注:この話は諸説ある模様)
観音堂から駐車場まで一気に下り、この日の登山は3山で止めにした。
帰宅後の懸田城跡の事を調べてみて、その工程を振り返ってみると、より山行の味わいが増した。
古城山(茶臼山)のGPS軌跡。
下山後、お腹が空いたので近くの道の駅りょうぜんへ立ち寄る。
前回11月30日に立ち寄った時は伊達鶏の釜飯を食べたので、今回は伊達鶏カレーきしめんを注文(700円)。温和な中にも鶏出汁がほんのり利いて美味しい一品だった。
3月までにまたこの界隈の低山歩きをする予定だ。
福島県は南北朝時代の出城が各地に点在していて、歴史を感じさせる山歩きができてとても楽しい。
コメント
コメント一覧 (6)
わが伊達市においでいただきありがとうございます。
350年の歴史ある
霊山太鼓のふるさと
霊山町の里山を詳しく説明していただき感無量です。
地元の私ですら、わからない、話、とても感動しました。
また、おいでいただけると
言う事なので楽しみにしております。
さむいおり
どうか、お身体に気を付けてお過ごしくだい
ありがとうございました。
伊達市は歴史の重みを感じさせる場所が多くて、訪問する度に新たな発見があります。
本当は山に関する予習をしていけば、現地で過去に思いを馳せながら歩くことができますが、今回はそれを省略してしまいました。
雪山が吹雪の時には阿武隈山地や北上山地の山々に向かう事が多くなります。
また近いうちに御地を再訪したいと考えております。
歴史があって、痕跡が残っていると昔の人々の思いが
伝わってくる気がして、感慨深い里山歩きになりました。
噂に聞いていた鶏釜飯想像以上でした。
今度はうどんにしようかな。なんでも美味しそうですね。
ひもを挟んでしまい、ご迷惑をおかけしてしまいました。
スズキのデイーラーさんは本当に親切ですね。
この日登った三山全てが城跡とは歴史に満ちた地域だったのですね。
復習してみて、より山の味わいが増した感じです。
あの道の駅にはまた行きたいですね。
感染予防も素晴らしく、働いている方々のおもてなしの心が分かります。
しかし修理が無料だったのは助かりました。
内張りを剥がすのに苦労されたようで、下の部分を少し割ってしまったと逆にお詫びされました。
私が注意すれば良かったので気にしないでください。
歴史もゆっくり読んでみたりの楽しみが
いいですね。我が頭のメモリに残るのか?😅
道の駅での買い物もついつい買い過ぎて…伊達鳥ラーメンも美味しかったよ❣️
蓮根美味しかった!お買い得でした〜
有難うございました(^o^)
歴史のある山歩きは、歩いている最中に出会った風景や史跡がより記憶の奥底に残りますね。
昔人に思いを寄せると、より感情移入ができるからだと思います。
あの界隈の山に行っちゃうと買い物も楽しみの一つになります。
ささやかな金額ですが地元にお金を落とす意味は大きいと感じます。