大分右膝の調子は良くなってきた。しかしまだ少し違和感が残っているため、大事を取って土曜日は丸森町の低山を歩いてきた。今回は未登の石倉山をメインにしている。
【 2/6 丸森富士(171m)と石倉山(200m) 宮城・阿武隈山地 】
●丸森富士:林道入口~立石登山口~立石~小富士山登山口~ブル道T字路~小富士山~ブル道T字路~丸森富士~立石登山口~林道入口
●石倉山:雉子尾川堤防脇~石倉地区~阿弥陀堂~ブル道入口~石倉山~二峰~三峰~おえん平~石倉地区~雉子尾川堤防脇
立石ウォーキングコースの看板が立つ十字路から東に進み、林道入口の広いスペースに車を停めて歩きだす。今回はmaronnさんとうめさんが一緒だ。マスさんは出勤日のため残念ながら参加できなかった。
林道を登って行くと、左手に弾薬庫、もしくは火薬庫?の施設を見る。
その少し先の右側に立石登山口の大きな看板が設置されていた。
【 2/6 丸森富士(171m)と石倉山(200m) 宮城・阿武隈山地 】
●丸森富士:林道入口~立石登山口~立石~小富士山登山口~ブル道T字路~小富士山~ブル道T字路~丸森富士~立石登山口~林道入口
●石倉山:雉子尾川堤防脇~石倉地区~阿弥陀堂~ブル道入口~石倉山~二峰~三峰~おえん平~石倉地区~雉子尾川堤防脇
立石ウォーキングコースの看板が立つ十字路から東に進み、林道入口の広いスペースに車を停めて歩きだす。今回はmaronnさんとうめさんが一緒だ。マスさんは出勤日のため残念ながら参加できなかった。
林道を登って行くと、左手に弾薬庫、もしくは火薬庫?の施設を見る。
その少し先の右側に立石登山口の大きな看板が設置されていた。
じめじめした湿地状のところを過ぎると陽の当たらない急な階段の登りになる。
霜柱をサクサク踏みしめながら登って行く。
平らになった場所から北側を見ると丸森富士(羽山)が林道を隔てて至近距離に見えていた。
立石を見上げながら、再び急な階段を登る。
2年ぶりに訪れた立石。
何度見ても威圧されるような迫力がある。
立石の説明看板。
登山口まで下るのを嫌って、伐採地に迷路のように伐られたブル道をたどって小富士山登山口を目指す。途中、西側が皆伐された痛々しい姿の小富士山が望める。
ブル道は一か所崩壊しているので先に進めない。崩壊地を慎重に下って下部のブル道に合流。
林道に出て少し東側へ登ると小富士山の登山口標識がある。
ヒノキ林を僅かに登って左折するとブル道の登りに変わる。
二か所あるブル道の分岐には小富士山を示す道標が置かれていた。
立石を振り返る。
縦じまの雪が残る崩壊地を下のブル道まで下った。
富士権現社の石祠が安置された小富士山山頂に到着。
山間を流れる雉子尾川の奥に鹿狼山が望める。
視線を左に振ると金山城跡が俯瞰できる。
この城跡はお館山と呼ばれているらしい。また右奥の杉が立つピークは黒森とか。
実はこの日、小富士山へ登った理由の一つが、金山城跡を眺めてみたいと思ったからだ。
金山城は相馬氏と伊達氏との間で争奪戦が展開されたいわゆる「境目の城」で、1581年(天正9年)に伊達政宗が初陣を飾り、1584年(天正12年)に伊達氏の領有となった。その後、伊達輝宗の家臣で、相馬氏との戦いで活躍した中島宗求が2000石でこの城を拝領した。江戸時代には「元和の一国一城令」により金山城ではなく金山要害と称し、引き続き中島氏が幕末に至るまで居住した。
この中島氏とは先週登った懸田城(古城山)の城主・懸田俊宗の臣下にも関わらず、伊達晴宗側に寝返った中島伊勢義康の子孫である。家系図はよく分からなかったが、中島伊勢(中島宗忠)が武勲により保原城主となり、中島宗求はその二男として生まれたらしい。
そんな歴史に思いを馳せ、寝牛城、臥牛城の別名を持つ金山城跡を見下ろしながらマスさんお手製の和菓子『祝丑』を食べる。
練乳が入った練り切りで、とても美味しい一品だった。
山頂から西のT字路分岐まで下り、藪が伸び始めたブル道を登り返して丸森富士に向かう。
ブル道上部で振り返ると、鬼形山が遮るものなく見えた。
ブル道の終点から、稜線伝いにはっきりとした踏み跡が丸森富士まで続いていた。
しかし彼方此方で枯れた松の倒木が行く手の邪魔をする。
丸森富士の山頂直下に門番のように立ちふさがる大岩があった。

丸森富士の山頂に到着。
イノシシと思われる大型の獣が凄い勢いで逃げ下っていく。
巨岩の上が最高点だが、足元はすっぱりと10m以上切れ落ちている。
以前訪れた時にはこの岩の上に石祠があったと記憶しているが、今は消失していた。

山頂の三角点の点名は羽山。
丸森富士には次のような伝説がある。
昔、羽山と立石は大空を貫くほどの大石だった。
両者お互いに勢力争いを始め、大喧嘩になってしまった。
数日後、羽山は敗れ、その大石の半分が金山方面に飛ばされた。
怒った羽山の大石は最後の力を振り絞り立石に体当たりをする。
すると立石の一部は東の部分を削り取られ、山の下に落ちていった。
それは今も内川の川底に残っていて、口惜しさのあまりうなり散らしているため、土地の人々はうなり石と呼んでいる。
その後、羽山と立石には羽山大権現が祀られ、作神様として地域の方々の信仰の対象となっている。
T字路分岐まで戻るとかなり遠回りになるので、道のない南斜面を強引に下った。
下りのルートを西側に振り過ぎると有刺鉄線の柵に囲まれた弾薬庫?の上に出てしまうので、GPSでルートを確認しながらそちらに寄らないように下る。
地形図の破線ルートは完全に薮に埋まっている。
倒木と笹薮を避けていくと、立石登山口のすぐ前の林道に降り立った。
車に戻り、次の山・石倉山へ向かう。
丸森富士のGPS軌跡。
石倉山へ行く途中、国道113号線から右折し、雉子尾川を渡った先にある佐野製糸場跡を見学する。
左側の石垣で括られた区画が佐野製糸場跡。
奥に登ってきた小富士山が望める。
佐野製糸場跡の説明看板。
今回は時間がないので工女の墓には行かない。
石倉山は鬼形山の南東に三つのピークを連ねる、地形図に山名がない寂峰だ。
山の北側の石倉地区から取り付くが、登山道の有り無しは歩いてみてのお楽しみにしておこう。
駐車場所がないので、雉子尾川左岸の堤防脇のスペースに車を停めて歩きだした。
そこから見た石倉山の本峰。標高は200mしかない低山である。
石倉地区からアミダ堂の看板が建つ道に入る。
この車道は100m足らず先の所から、道の崩落のために車の通行は規制されていた。
阿弥陀堂に立ち寄る。
周囲の杉がすべて伐採されていて趣きに欠ける。
何でこの山の存在を知ったのか。
懸田御前のことをネットでいろいろ検索していたら、中島氏の御廟がある瑞雲寺の住職さんが管理されている『丸森の巨石伝説』というHPがヒットした。
これはなかなか興味深いHPで、丸森町に点在する巨石や石碑の多くを調査され、記録としてアップされている。
その中の『石倉山巨石群』の記事に懸田御前の伝説が記載されていた。
その内容を転載すると下記の通り。これは丸森町のふるさとの伝説、より抜粋された文章らしい。
戦国時代の終わりごろ、伊達郡の掛田城が伊達晴宗の軍勢により落城し、奥方の掛田御前が三人の息女とともに捕らえられ、金山の中島家に預けられた。中島公が側室にしようとしたが、御前は固く操を守り従おうとはしなかった。立腹した中島公は、子供を亡きものにするぞと脅し、長女の”おえん”を石倉の山中で殺害、それでも聞き入れようとしないので、今度は次女の”おさき”を谷地木戸と田辺の境で、末娘の”おなつ”を大内の伊手で殺害した。嘆き悲しんだ掛田御膳は、操を守り通し三人の後を追い、”鏡井戸”に身を投げて死んだという。その直後から、夜な夜な中島公のまくら元に大むかでが現れうなされることになった。以後、中島家では、悪い事ばかりが続き、これは掛田御前のたたりに相違ないということになり、田辺に長泉寺を建てて、御前と三人の息女を弔ったということである。
はっきり言ってこの伝説は年代的に辻褄が合わない。
懸田氏が滅亡したのが1553年(天文22年)で、伊達氏が金山城を領有としたのは1584年(天正12年)。30年の年月が流れている。
恐らく福島の懸田御前伝説が人々の間で伝わっていくうちに、話が変遷したものであろうが、これもまた悲しいお話である。
当HPの探訪記事とは山の様そうがかなり変わっていると想像していたが、実際に歩いてみると、ほとんどの工程が藪漕ぎを強いられた。里山の環境は人の手が入りやすいので、短い期間でも変化が激しい。
山の取りつき場所が分からないので、適当にブル道をたどってみる。
ブル道はあちこちに分岐があり、山勘を働かしてルートを選択する。
途中からブル道を離れ、伐採後の樹間が混んだ低木薮を登ると石倉山本峰に着いた。
ピークの南側に巨石が点在している。
南側に少し下った稜線の西側に展望の良い大岩が斜面から突き出ている。
北西のすぐ近くに鬼形山が見える。
南西には岩岳(左奥)、近辺山(標高408m・三等三角点・右奥)と、大高松巨石群のある高松山(中央手前少し左の台形の山)、そして懸田御前の長女おえんが殺害されたと言われるおえん平(右手の茶色く見える平坦な場所)が一望できた。
二峰の奥に堂平山も見えている。
道のない稜線を歩いていたらツクバネの実があった。
二峰の鞍部へ下って行くと、突然踏み跡が現れる。
伐採から免れて雑木林が残っていたので道が消えなかったようだ。
二峰の鞍部で風を避けてお昼にする。
3月の早春の山を歩いているような温かさに包まれた。
腰を下ろしている傍らにウスタビガの繭がぶら下がっていた。
二峰山頂に鎮座する岩は山中で一番大きかった。
でも景色は一段西側へ下ったところにある大岩が勝る。
奥の山の一番右手にある三角形の低い山の名も石倉山だ。
丸森町には内川流域にも石倉地区が存在する。

大岩から最後のピークである三峰を望む。
かなりアップダウンがあるように見えるが、俯瞰から仰瞰の構図は目の錯覚で山が高く見えてしまう。
三峰が近づくと踏み跡は消え、尾根が細くなり、アカマツの倒木がルートの邪魔をする。
このピーク一帯は大規模な伐採が過去に行われたようで、低木が密生し、しかも巨石が積み重なっているため先に進むのが大変になる。
南側に張り出した岩の庇が印象に残った。

前日、グーグルの航空写真でこの山を見たら、南斜面が伐採されてブル道が山頂近くまで届いている事を知った。当初はそのブル道を下る予定にしていた。しかし伐採後のヤブの繁茂は想像を超えて酷く、しかも倒木だらけで下ることもままならない。
鎌倉山の写真を岩の上に登って撮影し、下る斜面を見下ろしたら、そのルートは絶望的だと理解した。
南が駄目なら西へ下るしかない。
倒木を避けながら斜面をトラバースして西尾根へ移動する。
アカマツ林から雑木林に変わると倒木地帯は終わり、上手く車道に降り立つことができた。
車道の奥がおえん平。実際は御林平が訛っておえん平になったらしい。
一帯は湿地も多く、ハンノキの林が卓越していた。
おえん平から北東に車道を下って行くと、道脇に夥しい数の粗大ごみが置かれていた。
不法投棄なのか、地主さんが粗大ごみの仮置き場にしているのか分からないが、この光景を見て気持ちが暗くなってしまった。
しかし巨石巡りを充分楽しめた一日だったので、その点では良かったと思う。
だが、車に戻ってキーロックを解除したら、またハッチバックドアが開かなくなってしまった。
今回はドアに何も挟んでいないのに・・・
結局、ディーラーさんに持っていったら、開閉部分の部品全ての交換作業が必要になってしまった。
次の土曜日に部品が入るので、その時までハッチバックが開かない車を使うしかない。
石倉山のGPS軌跡。

霜柱をサクサク踏みしめながら登って行く。
平らになった場所から北側を見ると丸森富士(羽山)が林道を隔てて至近距離に見えていた。
立石を見上げながら、再び急な階段を登る。
2年ぶりに訪れた立石。
何度見ても威圧されるような迫力がある。
立石の説明看板。
登山口まで下るのを嫌って、伐採地に迷路のように伐られたブル道をたどって小富士山登山口を目指す。途中、西側が皆伐された痛々しい姿の小富士山が望める。
ブル道は一か所崩壊しているので先に進めない。崩壊地を慎重に下って下部のブル道に合流。
林道に出て少し東側へ登ると小富士山の登山口標識がある。
ヒノキ林を僅かに登って左折するとブル道の登りに変わる。
二か所あるブル道の分岐には小富士山を示す道標が置かれていた。
立石を振り返る。
縦じまの雪が残る崩壊地を下のブル道まで下った。
富士権現社の石祠が安置された小富士山山頂に到着。
山間を流れる雉子尾川の奥に鹿狼山が望める。
視線を左に振ると金山城跡が俯瞰できる。
この城跡はお館山と呼ばれているらしい。また右奥の杉が立つピークは黒森とか。
実はこの日、小富士山へ登った理由の一つが、金山城跡を眺めてみたいと思ったからだ。
金山城は相馬氏と伊達氏との間で争奪戦が展開されたいわゆる「境目の城」で、1581年(天正9年)に伊達政宗が初陣を飾り、1584年(天正12年)に伊達氏の領有となった。その後、伊達輝宗の家臣で、相馬氏との戦いで活躍した中島宗求が2000石でこの城を拝領した。江戸時代には「元和の一国一城令」により金山城ではなく金山要害と称し、引き続き中島氏が幕末に至るまで居住した。
この中島氏とは先週登った懸田城(古城山)の城主・懸田俊宗の臣下にも関わらず、伊達晴宗側に寝返った中島伊勢義康の子孫である。家系図はよく分からなかったが、中島伊勢(中島宗忠)が武勲により保原城主となり、中島宗求はその二男として生まれたらしい。
そんな歴史に思いを馳せ、寝牛城、臥牛城の別名を持つ金山城跡を見下ろしながらマスさんお手製の和菓子『祝丑』を食べる。
練乳が入った練り切りで、とても美味しい一品だった。
山頂から西のT字路分岐まで下り、藪が伸び始めたブル道を登り返して丸森富士に向かう。
ブル道上部で振り返ると、鬼形山が遮るものなく見えた。
ブル道の終点から、稜線伝いにはっきりとした踏み跡が丸森富士まで続いていた。
しかし彼方此方で枯れた松の倒木が行く手の邪魔をする。
丸森富士の山頂直下に門番のように立ちふさがる大岩があった。

丸森富士の山頂に到着。
イノシシと思われる大型の獣が凄い勢いで逃げ下っていく。
巨岩の上が最高点だが、足元はすっぱりと10m以上切れ落ちている。
以前訪れた時にはこの岩の上に石祠があったと記憶しているが、今は消失していた。

山頂の三角点の点名は羽山。
丸森富士には次のような伝説がある。
昔、羽山と立石は大空を貫くほどの大石だった。
両者お互いに勢力争いを始め、大喧嘩になってしまった。
数日後、羽山は敗れ、その大石の半分が金山方面に飛ばされた。
怒った羽山の大石は最後の力を振り絞り立石に体当たりをする。
すると立石の一部は東の部分を削り取られ、山の下に落ちていった。
それは今も内川の川底に残っていて、口惜しさのあまりうなり散らしているため、土地の人々はうなり石と呼んでいる。
その後、羽山と立石には羽山大権現が祀られ、作神様として地域の方々の信仰の対象となっている。
T字路分岐まで戻るとかなり遠回りになるので、道のない南斜面を強引に下った。
下りのルートを西側に振り過ぎると有刺鉄線の柵に囲まれた弾薬庫?の上に出てしまうので、GPSでルートを確認しながらそちらに寄らないように下る。
地形図の破線ルートは完全に薮に埋まっている。
倒木と笹薮を避けていくと、立石登山口のすぐ前の林道に降り立った。
車に戻り、次の山・石倉山へ向かう。
丸森富士のGPS軌跡。
石倉山へ行く途中、国道113号線から右折し、雉子尾川を渡った先にある佐野製糸場跡を見学する。
左側の石垣で括られた区画が佐野製糸場跡。
奥に登ってきた小富士山が望める。
佐野製糸場跡の説明看板。
今回は時間がないので工女の墓には行かない。
石倉山は鬼形山の南東に三つのピークを連ねる、地形図に山名がない寂峰だ。
山の北側の石倉地区から取り付くが、登山道の有り無しは歩いてみてのお楽しみにしておこう。
駐車場所がないので、雉子尾川左岸の堤防脇のスペースに車を停めて歩きだした。
そこから見た石倉山の本峰。標高は200mしかない低山である。
石倉地区からアミダ堂の看板が建つ道に入る。
この車道は100m足らず先の所から、道の崩落のために車の通行は規制されていた。
阿弥陀堂に立ち寄る。
周囲の杉がすべて伐採されていて趣きに欠ける。
何でこの山の存在を知ったのか。
懸田御前のことをネットでいろいろ検索していたら、中島氏の御廟がある瑞雲寺の住職さんが管理されている『丸森の巨石伝説』というHPがヒットした。
これはなかなか興味深いHPで、丸森町に点在する巨石や石碑の多くを調査され、記録としてアップされている。
その中の『石倉山巨石群』の記事に懸田御前の伝説が記載されていた。
その内容を転載すると下記の通り。これは丸森町のふるさとの伝説、より抜粋された文章らしい。
戦国時代の終わりごろ、伊達郡の掛田城が伊達晴宗の軍勢により落城し、奥方の掛田御前が三人の息女とともに捕らえられ、金山の中島家に預けられた。中島公が側室にしようとしたが、御前は固く操を守り従おうとはしなかった。立腹した中島公は、子供を亡きものにするぞと脅し、長女の”おえん”を石倉の山中で殺害、それでも聞き入れようとしないので、今度は次女の”おさき”を谷地木戸と田辺の境で、末娘の”おなつ”を大内の伊手で殺害した。嘆き悲しんだ掛田御膳は、操を守り通し三人の後を追い、”鏡井戸”に身を投げて死んだという。その直後から、夜な夜な中島公のまくら元に大むかでが現れうなされることになった。以後、中島家では、悪い事ばかりが続き、これは掛田御前のたたりに相違ないということになり、田辺に長泉寺を建てて、御前と三人の息女を弔ったということである。
はっきり言ってこの伝説は年代的に辻褄が合わない。
懸田氏が滅亡したのが1553年(天文22年)で、伊達氏が金山城を領有としたのは1584年(天正12年)。30年の年月が流れている。
恐らく福島の懸田御前伝説が人々の間で伝わっていくうちに、話が変遷したものであろうが、これもまた悲しいお話である。
当HPの探訪記事とは山の様そうがかなり変わっていると想像していたが、実際に歩いてみると、ほとんどの工程が藪漕ぎを強いられた。里山の環境は人の手が入りやすいので、短い期間でも変化が激しい。
山の取りつき場所が分からないので、適当にブル道をたどってみる。
ブル道はあちこちに分岐があり、山勘を働かしてルートを選択する。
途中からブル道を離れ、伐採後の樹間が混んだ低木薮を登ると石倉山本峰に着いた。
ピークの南側に巨石が点在している。
南側に少し下った稜線の西側に展望の良い大岩が斜面から突き出ている。
北西のすぐ近くに鬼形山が見える。
南西には岩岳(左奥)、近辺山(標高408m・三等三角点・右奥)と、大高松巨石群のある高松山(中央手前少し左の台形の山)、そして懸田御前の長女おえんが殺害されたと言われるおえん平(右手の茶色く見える平坦な場所)が一望できた。
二峰の奥に堂平山も見えている。
道のない稜線を歩いていたらツクバネの実があった。
二峰の鞍部へ下って行くと、突然踏み跡が現れる。
伐採から免れて雑木林が残っていたので道が消えなかったようだ。
二峰の鞍部で風を避けてお昼にする。
3月の早春の山を歩いているような温かさに包まれた。
腰を下ろしている傍らにウスタビガの繭がぶら下がっていた。
二峰山頂に鎮座する岩は山中で一番大きかった。
でも景色は一段西側へ下ったところにある大岩が勝る。
奥の山の一番右手にある三角形の低い山の名も石倉山だ。
丸森町には内川流域にも石倉地区が存在する。

大岩から最後のピークである三峰を望む。
かなりアップダウンがあるように見えるが、俯瞰から仰瞰の構図は目の錯覚で山が高く見えてしまう。
三峰が近づくと踏み跡は消え、尾根が細くなり、アカマツの倒木がルートの邪魔をする。
このピーク一帯は大規模な伐採が過去に行われたようで、低木が密生し、しかも巨石が積み重なっているため先に進むのが大変になる。
南側に張り出した岩の庇が印象に残った。

前日、グーグルの航空写真でこの山を見たら、南斜面が伐採されてブル道が山頂近くまで届いている事を知った。当初はそのブル道を下る予定にしていた。しかし伐採後のヤブの繁茂は想像を超えて酷く、しかも倒木だらけで下ることもままならない。
鎌倉山の写真を岩の上に登って撮影し、下る斜面を見下ろしたら、そのルートは絶望的だと理解した。
南が駄目なら西へ下るしかない。
倒木を避けながら斜面をトラバースして西尾根へ移動する。
アカマツ林から雑木林に変わると倒木地帯は終わり、上手く車道に降り立つことができた。
車道の奥がおえん平。実際は御林平が訛っておえん平になったらしい。
一帯は湿地も多く、ハンノキの林が卓越していた。
おえん平から北東に車道を下って行くと、道脇に夥しい数の粗大ごみが置かれていた。
不法投棄なのか、地主さんが粗大ごみの仮置き場にしているのか分からないが、この光景を見て気持ちが暗くなってしまった。
しかし巨石巡りを充分楽しめた一日だったので、その点では良かったと思う。
だが、車に戻ってキーロックを解除したら、またハッチバックドアが開かなくなってしまった。
今回はドアに何も挟んでいないのに・・・
結局、ディーラーさんに持っていったら、開閉部分の部品全ての交換作業が必要になってしまった。
次の土曜日に部品が入るので、その時までハッチバックが開かない車を使うしかない。
石倉山のGPS軌跡。

コメント
コメント一覧 (6)
丸森の巨石群に興味をもちました。
実は私の家は三代続く石屋ですが
川俣~飯舘の花塚山は御影石
丸森は泥かぶり石が有名でした。
もしかすると、あの巨石は泥かぶりなのかなと
想像しながら読ませていただきました。
話がそれてしまって申し訳ありませんでした。
これからも里山の情報を
よろしくお願いします。
ありがとうございました。
何時も拙ブログを閲覧いただきありがとうございます。
渡辺さんのお仕事は石屋さんでしたか。
それではこういった岩山には興味があるでしょうね。
泥かぶり石という言葉を初めて知りました。
その石を調べてみましたが、今回歩いたエリアは御影石だと思います。
近場の岩岳と同じ岩質でした。
立石ほか初めて知るものばかりです。
うめさん元気そうで何より。もうお一人は相変わらずのお転婆さんですね(^^;)
内川と雉子尾川に挟まれた山域に花崗岩質の巨石が多い印象です。
亘理地塁山地には見かけませんし、筆甫付近は霊山層になってしまいます。
立石を見ると驚きますよ。
うめさんは昨年の熊野岳以来でした。
あの岩の上に立つmaronnさんにははらはらしましたよ(笑)
カモン!カモンと呼ばれてるけど
最初の立石の上部は◯畳らしいが確認出来なかった😅
林道の粗大ゴミは目にしたく無かったですね…💦
流石に娘は削除か…(笑)🤣
ありがとうございました!
宮城にも富岡製糸場のような場所があることを知る人は少ないですね。
立ち寄って知っていただき良かったです。
立石はハシゴを架けても登れない高さですね。
町の天然記念物なのでロッククライミングも出来ないでしょう。
あの投棄ゴミをネットで調べましたが、まったくヒットしなかったです。
民有地なので町は何も言えないのかもしれません。